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北アメリカ北東岸の襲撃 (1703年) : ミニ英和和英辞書
北アメリカ北東岸の襲撃 (1703年)[きたあめりかほくとうがんのしゅうげき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きた, ほく]
 (n) north
北アメリカ : [きたあめりか]
 (n) North America
北東 : [ほくとう]
 【名詞】 1. northeast 
: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
東岸 : [とうがん]
 【名詞】 1. eastern coast 2. east bank
: [きし]
 【名詞】 1. bank 2. coast 3. shore 
襲撃 : [しゅうげき]
  1. (n,vs) attack 2. charge 3. raid 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 

北アメリカ北東岸の襲撃 (1703年) : ウィキペディア日本語版
北アメリカ北東岸の襲撃 (1703年)[きたあめりかほくとうがんのしゅうげき]

1703年の北アメリカ北東岸の襲撃(きたアメリカほくとうがんのしゅうげき、英Northeast Coast Campaign、または恐怖の六日間)〔Drake. The Border Wars of New England. pp. 153-161 〕)は、アン女王戦争中の、1703年8月10日から10月6日にかけて起こった一連の襲撃である。アレクサンドル・ルヌフ・ド・ラ・ヴァリエール・ド・ボーバサンが、フランス植民地軍の500人部隊と、アカディアアベナキ同盟〔Bruce Bourque. Ethnicity on the Maritime Peninsula, 1600-1759. Ethnohistory. Vol. 36. No. 3. 1989. p. 270〕、そしてノリッジウォックのアベナキ族の兵を率いて、現在のメイン州沿岸部、ウェルズとカスコ湾の間に広がるイングランド人集落を15リーグ(約72キロ)以上に渡って焼き払った〔LENEUF DE LA VALLIÈRE DE BEAUBASSIN, ALEXANDRE - Dictionary of Canadian Biography Online 〕〔Jesuit historian Charlevoix France and England in North America. Part Six. Vol 1. p. 47〕。
イエズス会聖職者歴史家でもあるシャルルヴォワは、300人が死傷したと示唆している〔〔。一方で、やはり歴史家のフランシス・パークマンは、戦況と統計から判断すれば、せいぜい死傷者は160人であると異を唱えている〔Williamson, p. 44〕。
==歴史的背景==

1690年代ウィリアム王戦争での抗争があったにもかかわらず、18世紀初頭のアカディアとニューイングランドの境界地帯は、依然として英仏両国の領有の争いが続いていた。ヌーベルフランスは、アカディアの西の境界をケネベック川と定義した(ここは今はメイン州南部となっている)〔William Williamson. ''The history of the state of Maine''. Vol. 2. 1832. p. 27〕〔Griffiths, E. ''From Migrant to Acadian''. McGill-Queen's University Press. 2005. p.61〕〔Campbell, Gary. ''The Road to Canada: The Grand Communications Route from Saint John to Quebec''. Goose Lane Editions and The New Brunswick Heritage Military Project. 2005. p. 21.〕。一方で、フィリップ王戦争でのイングランドとインディアンたちの対立が尾を引き、戦争後のカスコ条約で、アベナキ族はイングランドの領有を認めつつも、自分たちが土地の主権者であることを主張し、それは条約にも明記されていた〔Rootsweb's WorldConnect Project: Kim's New England Ancestors (and more) 〕〔http://www.mainememory.net/sitebuilder/site/897/page/1308/print Maine History Online - 1668-1774 Settlement & Strife]〕。
フランスはノリッジウォック、ペノブスコット、ペノブスコット湾近くのフランス人入植地(現在のメイン州キャスティン)にカトリック教会を建て、ウィリアム王戦争中はその教会が攻撃の拠点となっていた〔Drake, p. 36〕 。セントローレンス川マサチューセッツ湾直轄植民地ニューヨーク植民地のそれぞれ沿岸部に位置する、主要な入植地の間の辺境地帯には、なおインディアン、とりわけアベナキ族イロコイ族が主に住んでおり、ハドソン川からシャンプラン湖に至る地域は、ヨーロッパ人の入植が始まったころは、入植者とインディアンの戦闘の場でもあった。病気や戦争でインディアンの人口が減り、いくらかその脅威が薄らいではいたが、それでも、辺境地帯の集落に対しての、入植者の脅威は根強かった〔Drake, p. 150〕。
1703年ヌーベルフランス総督フィリップ・ド・リゴー・ヴォードルイユの命令で、アレクサンドル・ルヌフ・ド・ラ・ヴァリエール・ド・ボーバサンがアカディアのアベナキ同盟と共に、ニューイングランドに対して一連の攻撃を仕掛けた。その範囲はウェルズからフォルマス(現在のポートランドを中心とした地域)にまで及んだ〔Peckham, p. 62〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北アメリカ北東岸の襲撃 (1703年)」の詳細全文を読む




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